WorkaholicなLoserの日常

日頃のモヤモヤを私見で突っ込んでいく

「点」ではなく「線」で理解するということ

なんだかんだバタバタした時間を過ごしていた。その結果、あっという間に4月も終わり、2年ぶりの「行動制限のない」ゴールデンウィークも過ぎ去り、そろそろ梅雨入りの頃合いになっている。国内も国際も情勢はそんなに良くないし、自らの業務関係も頗る良好とまではいかないが、まま何とかやっている。そんな日常。

 

今年度の新人教育担当を仰せつかったことは既述の通り。

古き慣習と新しい世界の狭間で考える - WorkaholicなLoserの日常

あれから2ヶ月、実際に着任した部下の指導と日々の業務をこなしているが、当初の不安はあまり感じない。自身の準備が良かったというよりも、周囲を良く観察しながら指示を仰ぎにくるよくできた当人自身の人間性に助けられているからであろう。自身にだけならまだ許せるが、少し砕けた感じで接してくるパーソナリティ部分には若干の難あり。今後の足枷にならなければ良いのだが…

 

そんな当人を指導するにあたり、既述のエントリーに挙げていた「令和的な教育指導」について、少しばかり垣間見えた気がする。と言ってもこれから記す内容は思い返せば、自らも前職での新卒1年目の時分に心のどこかで感じていたことかも知れず、真に「令和的」と言えるものかは判断に迷う部分でもある。

 

要は「点」ではなく「線」で教えること。

 

自らが転職入社してから4年間、自分以外の人間が教育担当になった様子を見るに、どうしても日々の業務に忙殺され新人教育・指導がおざなりになり始め、OJTという名の行き当たりばったりの指導や質問都度教授の流れが、どの年次でも全体的に蔓延していた気がする(この点については、その企業自体の「新人教育」に対する考え方、例えば年次の浅い者や比較的大きな客先・プロジェクトに携わる者を指導社員に割り当てることをどう考えているか、に起因するが、今回はここについては深掘りしない)。そうなってしまうと、どうしても場当たりな対応になってしまい、業務知識としては(Aという事象に対してBを用いてCという回答を導き出し解決する、等)確かに「教育している」ことにはなるだろうが、ではその知識はあくまでも「Aという事象が発生した場合」の解決法ではあるが、AaとかAbとか派生した時にも使えると思考できるような余地も同時に与えることになっているのか。

例えば、「営業の発注管理システムで発注ができる」ことだけを教えると、将来的に「発注状況や請求状態も同じシステムで確認できる」ことを、また別の機会に教えることにならないだろうか。

勿論、「1度に全部を教授したところで当人の記憶に残らなければ意味はない」が、最近の若者はデジタルであれアナログであれ、しっかりメモは取ってくれているように見受ける(そのメモを振り返るかどうか、でいうと、振り返っている様子は殆どないのは目に余るが...)。メモを取っている姿を知っていさえすれば、「あの時メモ取ってたよね??ちょっとノート見返そうか」とか、自ら振り返るよう促すこともできるし、そのような行動を習慣化させることで、日々更新される(=情報が一新される)世の中でも常に最新の情報を検索・参照する能力の向上の一助にはなり得るだろう。尤も、新卒一年目の仕事は「わからないことは何度でもいいから質問する」ことだと自論していることから、このような考えに至っていることは註釈したい。

 

どうしてもピンポイントで教えざるを得ない場面も勿論あるだろうが、そうであってもその後の早い段階で、網羅的に、或いは体系的に背景知識や仕組みといった全体像は教えておき、メモさせる。そのほうが当人の「理解した」「勉強になった」「成長できた」、一歩踏み込んで「もっと知りたい」といった意欲(=内的動機づけ)を育むことにも繋がるのではないだろうか。実際、客先への営業訪問に徐々に同行している我が新入社員は、昨年度の新入社員と比較しても既に「何が話されているのか」「何を依頼されているのか」「持ち帰った依頼をどのように調査していくべきか」あたりは朧げではあるが目星をつけて外出から戻ってきているように見受ける。

 

あくまでも一介の若輩者のサラリーマンの考察故、ここに記したことがこの世の真であるなど大それたことを宣うつもりは毛頭ない。寧ろ、ここまでお付き合いいただいた読者方の中で、意見異議反例があれば是非とも拝聴したい次第である。

古き慣習と新しい世界の狭間で考える

一気に春めいた気温になった今日。先週までの寒さが嘘みたいで、ネルシャツをチョイスした今朝の自分を恨んでいる今現在。休日にしては珍しく午前中に寝床を抜け出し意気揚々と都会に出てきてこの様とは、春の訪れに完全に浮き足立っている感じしかしない。

 

新年度から入社する新入社員の教育担当を命ぜられた。

前職でも経験はあるが、会社が違えば文化も違う。当時は4年目のペーペーのタイミングだった(はず)ので、見えていた世界も自分の知識も限られていたから、「自分が知っている、自分が教えられたような」指導内容に終始した面白みのない、教育というよりは「監視」に近いものだったように記憶している。

社会人8年目くらいを迎え、いろんな種類の新入社員や、いろんな指導法を実践した先人を見てきた。見えていた環境も変わった。だからこそ、今回の教育担当拝命という「機会」は、何かしらある意味で「この7年間の集大成1つ」として位置づけている節がある。そこまで気負わなくてもいいという自らの内なる声にも耳を傾けながら。

 

脱線するが、備忘録も兼ねて記しておこう。中心に据えた教育目的は「転職しても重宝される人財」。(死語に近いが)キャリアプランとか、ワークライフバランスの潮流がまだ残っている、寧ろこれからはより一層転職を中心として「人材の流動性」が当たり前になる時代だろうから、どんな場所に行ってもそこで「花を咲かせる」職業人になってほしい。そしてどんな場所に行っても「コイツがいなきゃ」と思ってもらえるような力を発揮できる人間に、「コイツになら会社/社会として投資したい」と思わせるような人間になってほしい。そんな願いを込めて。

 

そんなことを軸に色々と「教育指針」を立てている。骨子はできた。だが時間をおいて見返すと果たしてこれは教育として「相応しい」のだろうかとの疑念が沸き起こる。

自分が社会に出て、「こうすればうまく立ち回れる」と感じて指導に組み込もうとしていることは、失礼な言い回しになるがある意味「昭和的な価値観」に基づくものかもしれない。「自ら主体的に動く」を例にとれば、確かに「能動的に率先して仕事にあたる」とも読み取れるが、社会人1年目の、これから我が社での知識を蓄える時期にこれを実践するには、個人的には先輩社員のフォロー一択な気もする(例:「何かお手伝いできることはありますか??」等)。うーん、なんか昭和的。

勿論、そうやっていくことで「こんな仕事があるのか」とか「こういうときはこうすればいいのか」とか、断片的ながらも会社人としての立ち振る舞いや意識づけはできるかもしれない。但し、会社という利益追及⇨社員への還元機関としては、いくら試用期間の新入社員だとしてもそこに「給料」としてのコストは発生するわけで、昨今の情勢をみていると悠々と給料を羽振よく支払っている企業は多くはない。試用期間中でも可能であれば利益につながる「何かしらの成果」を求めたくなる。一説によれば新入社員1人につき、入社初年は1,000万円のコストがかかっているらしい(出処:前職での上司の口癖)。これは新入社員の平均年収1年分だけでなく、当人が入社までに受けてきた採用面接や内定取得後の社内諸手続きにかかったコストも合算した計算になっている。

 

じゃあ自身が感じた「昭和的」な側面を全て取り払って、自分が考える「令和的な」教育指針を立てればいい。なら「令和的」ってなんだ??

残念ながら何が「令和的」なのか、具体的どころか抽象的なイメージすら自分にはまだ持ち合わせていない。何かしらの意見は持つ必要は薄々感じていたが、今まで疎かにしたことは否めない。そして「昭和的」な側面を取り払うことも、肯首できない自分もいる。「今の会社」を、「今の世界」動かしているのは昭和の時代を経験した先人たちであり、いくら団塊の世代が一線を退いたところで、一気に平成・令和世代が手綱を握る状態にはなり得ないからだ。部分的にも「昭和的側面」を知識として保持しておく必要はあるし、それを知っておき、要所要所で実践できればこれが結構重宝する。特に「礼節・礼儀・一般的な対人関係(とされるもの)」が要求される場面では。某ボーカロイドの歌詞に、ある意味否定的な文脈で出てくる「お酌」だって、裏返せば「行動できるだけの余裕と周りに気を遣える視野を、常日頃から持つよう心がける」ことができる証だと、自身は解釈している。それは今の時代で(というより去年の半ばから急に)追及され始めた「付加価値」、「武器」のひとつになり得ると考える。

 

古き慣習とか考え方、価値観が全て悪いわけじゃない。自身の短く浅い経験の中でも、役立つ部分は確かにあった。

それらを現代に引っ張ってきて、今の価値観や潮流に融合させるにはどうしたらいいだろう。

そして融合させた先のあたらしい世界で、どんな姿形で発展するか、はたまた廃れるか。

某大学教員になったつもりでこんな書き方をしたが、そんなことを考えるのも面白いだろうし、いや寧ろ自身が昭和と令和の狭間で生まれ、両の価値観を(曲がりなりにも)知っている「平成の人間」であるからこそ、考える必要があるだろう。そんなことを思いながら今回はこの辺りで筆を置くことにする。

全体像を捉えて、俯瞰して眺める

先週までひたすらに働いた結果、休日出勤1日分の振替を取る必要が生じた。ということで今日を休みにした。

休みにしたと言っても特段やることもやりたいこともなく、かといってダラダラと時分を費やすこともできず、結局職場の最寄りにある煙草の吸える喫茶店に久々来てみた。土日祝臨時休業にしている店舗だから、かれこれ4ヶ月ぶりくらいか。

平日にも拘らずビジネススタイルに身を包んだ男女が打ち合わせに利用している。平日だからか、それとも春休み期間に突入したからか、いつものネズミ溝紛いの若者たちの姿は見えない。成程、やはり土日祝臨時休業の理由はこれか。

 

転職してこの3月で丸4年が経ち、5年目を迎えた。1年後には前職での在職期間を追い抜くことになる。今のところ、この職を手放して次なる場所を目指すようなことは考えていない。再転職のモチベーションがないのではなく、今の仕事内容にや業務の幅に満足しているからだ。給与面が幾許か改善されればいうことなしだが、斜陽業界故よっぽどの天変地異がないとこれは期待できない。

 

前職の頃の自分と今の自分とで、何が変わったのだろう。

性格というか、職場でのキャラクターはガラッと変わった。というよりも変えた。変わる必要は特段なかったが、以前のスタイルに近い人間が今の職場にいる。というより、ほぼそんなキャラばかりだった。偏見でしかないが、文学少年少女たるもの、真面目さの上に生真面目さが乗っかっている感じ。多少無理してでもチャランポランな人間を演じ、但しキッチリ締めるところは締める。そういったギャップを社内で、更には(いいかどうかは別にして)出せる客先については出していく。ぶっちゃけて話せる客先担当者にはぶっちゃけて、見返りに契約とか向こうの事情を仕入れる。時には「前職がその業界だったら、そうだよね」みたいなことも言われるが、いやいやそうではない、こちらの何を知っててそんなコメント出てくるんだ、前職では牧場犬ならぬオオカミに追われながら必死に柵の内側を延々と走り回る羊だったよ。

周りの様子も具に観て、状況を把握出来るようになった。誰がどういう仕事をしていて、今誰が手が空いているか・忙しくしているか、誰が誰にどんな指示・質問・相談をしているか。それらを総合して今の職場がどのような状況にあるか。「今のタイミングでこの人に仕事を振っていいか」「空気悪そうだからちょっと雑談入れてみるか」「この質問が出るってことは、コイツはここまでは理解しているな」「この回答なら、他にこういうケースは想定していない」ー。そんな分析を自分の中で蓄積できるようになった。

 

総じて、「全体像を捉える」ことはできるようになったと思う。ただもう一歩先を見据えると、「俯瞰して眺める」ことはまだできていない。

 

個人的に「全体像」とはその一時点で生じる事象で、あくまでもひとつの「点」。「俯瞰して眺める」と、その「点」の連続性で見える景色は「線」になっていて、更に時間的、空間的な側面も踏まえるとちょうど方眼紙のような「面」になっているはずだ。

方眼紙の考え方をそのまま用いてみる。縦軸を空間、横軸を時間と捉えると、「全体像」は、あくまでも「とある空間で、とある時間に起こった事象」の「点」で、その「点」だけでは過去も未来も見通すことはできない。但し、縦軸の空間にバリエーションを持たせること、そしてそのバリエーションを時間的経過とともに具に観察していくと、過去から現在に至るまでの「経緯」が自ずと見えてくるはず。

 

あくまでもまずは今の職場を俯瞰的に眺めることができれば、その後は会社全体、社会全体を俯瞰で眺めることが目標。そうすれば、斜陽業界の中での我が社の立ち位置や今後挑戦すべき分野、社会の動きと今後のトレンドに関するある程度の個人的解釈が持てるようになるだろう。そこまでいくことが当面の目標で、その先に何を為したいか・為すべきかはそこに至ってから考える。

 

そんなことを倩倩書き綴っていたら折角のコーヒーが冷めてしまった。これもコーヒーに想いを馳せることなく、俯瞰的に自身の環境を眺めることができない代償なのかもしれない。