WorkaholicなLoserの日常

日頃のモヤモヤを私見で突っ込んでいく

古き慣習と新しい世界の狭間で考える

一気に春めいた気温になった今日。先週までの寒さが嘘みたいで、ネルシャツをチョイスした今朝の自分を恨んでいる今現在。休日にしては珍しく午前中に寝床を抜け出し意気揚々と都会に出てきてこの様とは、春の訪れに完全に浮き足立っている感じしかしない。

 

新年度から入社する新入社員の教育担当を命ぜられた。

前職でも経験はあるが、会社が違えば文化も違う。当時は4年目のペーペーのタイミングだった(はず)ので、見えていた世界も自分の知識も限られていたから、「自分が知っている、自分が教えられたような」指導内容に終始した面白みのない、教育というよりは「監視」に近いものだったように記憶している。

社会人8年目くらいを迎え、いろんな種類の新入社員や、いろんな指導法を実践した先人を見てきた。見えていた環境も変わった。だからこそ、今回の教育担当拝命という「機会」は、何かしらある意味で「この7年間の集大成1つ」として位置づけている節がある。そこまで気負わなくてもいいという自らの内なる声にも耳を傾けながら。

 

脱線するが、備忘録も兼ねて記しておこう。中心に据えた教育目的は「転職しても重宝される人財」。(死語に近いが)キャリアプランとか、ワークライフバランスの潮流がまだ残っている、寧ろこれからはより一層転職を中心として「人材の流動性」が当たり前になる時代だろうから、どんな場所に行ってもそこで「花を咲かせる」職業人になってほしい。そしてどんな場所に行っても「コイツがいなきゃ」と思ってもらえるような力を発揮できる人間に、「コイツになら会社/社会として投資したい」と思わせるような人間になってほしい。そんな願いを込めて。

 

そんなことを軸に色々と「教育指針」を立てている。骨子はできた。だが時間をおいて見返すと果たしてこれは教育として「相応しい」のだろうかとの疑念が沸き起こる。

自分が社会に出て、「こうすればうまく立ち回れる」と感じて指導に組み込もうとしていることは、失礼な言い回しになるがある意味「昭和的な価値観」に基づくものかもしれない。「自ら主体的に動く」を例にとれば、確かに「能動的に率先して仕事にあたる」とも読み取れるが、社会人1年目の、これから我が社での知識を蓄える時期にこれを実践するには、個人的には先輩社員のフォロー一択な気もする(例:「何かお手伝いできることはありますか??」等)。うーん、なんか昭和的。

勿論、そうやっていくことで「こんな仕事があるのか」とか「こういうときはこうすればいいのか」とか、断片的ながらも会社人としての立ち振る舞いや意識づけはできるかもしれない。但し、会社という利益追及⇨社員への還元機関としては、いくら試用期間の新入社員だとしてもそこに「給料」としてのコストは発生するわけで、昨今の情勢をみていると悠々と給料を羽振よく支払っている企業は多くはない。試用期間中でも可能であれば利益につながる「何かしらの成果」を求めたくなる。一説によれば新入社員1人につき、入社初年は1,000万円のコストがかかっているらしい(出処:前職での上司の口癖)。これは新入社員の平均年収1年分だけでなく、当人が入社までに受けてきた採用面接や内定取得後の社内諸手続きにかかったコストも合算した計算になっている。

 

じゃあ自身が感じた「昭和的」な側面を全て取り払って、自分が考える「令和的な」教育指針を立てればいい。なら「令和的」ってなんだ??

残念ながら何が「令和的」なのか、具体的どころか抽象的なイメージすら自分にはまだ持ち合わせていない。何かしらの意見は持つ必要は薄々感じていたが、今まで疎かにしたことは否めない。そして「昭和的」な側面を取り払うことも、肯首できない自分もいる。「今の会社」を、「今の世界」動かしているのは昭和の時代を経験した先人たちであり、いくら団塊の世代が一線を退いたところで、一気に平成・令和世代が手綱を握る状態にはなり得ないからだ。部分的にも「昭和的側面」を知識として保持しておく必要はあるし、それを知っておき、要所要所で実践できればこれが結構重宝する。特に「礼節・礼儀・一般的な対人関係(とされるもの)」が要求される場面では。某ボーカロイドの歌詞に、ある意味否定的な文脈で出てくる「お酌」だって、裏返せば「行動できるだけの余裕と周りに気を遣える視野を、常日頃から持つよう心がける」ことができる証だと、自身は解釈している。それは今の時代で(というより去年の半ばから急に)追及され始めた「付加価値」、「武器」のひとつになり得ると考える。

 

古き慣習とか考え方、価値観が全て悪いわけじゃない。自身の短く浅い経験の中でも、役立つ部分は確かにあった。

それらを現代に引っ張ってきて、今の価値観や潮流に融合させるにはどうしたらいいだろう。

そして融合させた先のあたらしい世界で、どんな姿形で発展するか、はたまた廃れるか。

某大学教員になったつもりでこんな書き方をしたが、そんなことを考えるのも面白いだろうし、いや寧ろ自身が昭和と令和の狭間で生まれ、両の価値観を(曲がりなりにも)知っている「平成の人間」であるからこそ、考える必要があるだろう。そんなことを思いながら今回はこの辺りで筆を置くことにする。