少しでも理想とする自分に自分は近づけているのか
毎週末の憩いとして利用していた煙草が吸える喫茶店、少し忙しくてご無沙汰している間に、いつの間にか土日祝は臨時休業にするとの張り紙だけを残して真っ暗な空間に早変わりしていた。こちとら絶望感しか無い。
多少なりとも言っておくと、自分は別段ヘビーでもチェーンでもない普通の喫煙者で(そもそも喫煙の定義の中で「普通」なんてものがあるのか甚だ疑問だが)、「煙草が吸えない喫茶店は喫茶店じゃない」なんてとんでもない爆弾発言を呈するつもりは毛頭ない。が、ふとしたタイミングで己の意識に束の間の休息を挟む、それも移動することなく切り替えるために、となると、昨今の時勢に逆らうようだが少しくらいは「煙草の吸える喫茶店」は存続して欲しいものだ。
そんなことを思いながら喫煙ルーム併設の喫茶店に潜り込み、この記事を認めている。
煙草を吸う父親、限界まで飲んだ時の酒癖が至極悪い母親の姿をみてか、思えば学生の頃は「酒と煙草は一生やらない」と心に誓ったはずの青年が、その数年後には酒を嗜むようになりいつしか「行きつけのバー」まで備え、カクテルでは飽き足らずストレートやハーフロックで夜を更すようになった。更にその数年後には、仕事のストレスと社内の情報は喫煙所にある(と言えるくらい、当時の職場では上層部が愛煙家だった)と思い至り煙草に手を出してしまう。
後悔の念があるかといえばそんなものは最初の1年で霧散した。絶とうと思えど数日、何なら数時間後には諦めの境地に立つ。そんなことを新年を迎えるたびに何度経験したことか。
学生時代に思い描いた「自分」に、自分は少しでも近づいているだろうか。
そんなことを少し考えるも、すぐに思考が止まる。
そもそも学生時代に思い描いた自分の未来の原型は何であったか。
最近読んでいる本で、とある著者が記していることを自分なり解釈した時、(著者の真意と異なる点がありそうで全くもってその通りと自信を持って言う自信は皆無だが)重なるとことがあると感じた。
「その当時の自分の心情を今の自分が振り返ろうにも、全く同じ地平に立って、全く同じ感覚・価値観で思い起こすことができない」
その著者は「自身は記憶力がいい方ではない」と註釈されていたが、それを補完する上で「デジタルに残すこと」にしていると記されている。時にはカメラ、時にはNoteをはじめとするブログ、時には動画配信やコメンテーターとして出演するテレビ番組。その時点でのリアルな自身をデジタルで記録することで、振り返った際に視覚的・聴覚的に「思い出す(思い出させる)」、ある意味でHDDを備えるようにしているらしい。
アナログであれデジタルであれ、見直すことでその当時の感情や思考を思い返すことができるのであれば、確かにこの手法は有益だと思うし、実践してみたい自分がいることも確かだが、このブログでさえも碌に定期更新できていない自身にそんな継続性を保つよう自戒し続けることはできるのだろうかー、と書いてみて不意に思い出した。学生時代の自分が思い描いた「理想」の根本は、継続性を持った自分であった。
打ち込んできた英語という言語の学習者として、当時のレベルを維持しつつ高みを目指す。
常にインプットを絶やさず、知識の深いニンゲンになる。
自らの行い全部が全部、道半ばで停滞しているわけではない。ただ、具体的に周囲に誇れるような継続している事象があるかと言われると、すぐに思いつかないことの恥ずかしさ。「悔しい」までは到達しない、「なんか虚しいね」程度の、でも何か癪に触るような疼き。何にしても、変わりたいなら意識すれば変わることができるくらいの、でも長らく到達できていないやや高めのハードルであれば、乗り越えてみた時の達成感は、恐らく「なんだ、割と普通のことじゃん」と思えるくらいの課題だろうし、挑戦しないならする方がましだろう。
万が一にも学生時代の自分が今の自身に相対するようなことがあった時に、「継続してるの、酒と煙草だけじゃん」とか言われるようなことがないように、自戒の意を込めながらー、とここまで息巻いて書き綴ったが、そろそろ喫煙ルームに足を伸ばしておこうか。
もやもや
昨年2月に思い立ってこのブログを更新し始め、なんとか4月までは毎週更新していたものの、その後の仕事の繁忙と、個人的な諸々があって8月に再更新したきり、ご無沙汰となっている。
初年は10本の投稿とのことで、目標であった毎週更新(=年52本)っていうのは個人的には難しいハードルだったのかと、実際にやってみて痛感した次第。正直YouTuberとか若干舐めていた自身にとっては良い教訓になった。
いくらインプットしても、アウトプットするための準備・体力・気力がないと「何かを生み出す」ことの継続性は簡単に絶たれるのだなと。勿論これはYouTuberに限らず、音楽・絵画といったアーティストや教育・研究分野にも通ずるのだが。
そんなこんなで気がつけば2021年は幕を閉じ、2022年という新しい年を迎えたわけだが、振り返れば2021年のうちに自身はどれほど成長できたのか。正直いって実感は全くない。
全くだ。
新しい資格を取得したこともなく、TOEICはコロナを理由に未受験(お陰で過去のスコアは全て失効)。取り柄だと信じていた読書は殆ど手付かずざっと10冊程度の読了。碌に運動もせず(これもコロナを理由に)、地元にも帰らずと、閉鎖的な己のコミュニティの中で自己をアピールする。然しアピールしたところで誰かにとっての序列が変わるわけでもなく、成長できたと手応えを掴めるような出来事は何一つとして無かったように思える。
その一方で、自らの無知と向き合うこともできた。
日々垂れ流される有象無象の社会の出来事に耳を傾けているうちに、自らがこの国、強いてはこの世界の何たるか、何が根本にあってどう変化しているのか、それが自らの生活及び今後の潮流にどのような影響を与えうるのか。
勿論、森羅万象を余すことなく予知・予言できる人間はこの世にいないし、自身がそのようなニンゲンになろうとも毛頭思わないが、ただそれでも、自身のできる範囲で、最低限の事象だけでも知っておく必要は少なからずあるのではないか。将来の見通しが立たないことで自暴自棄になって起こったと思われる特に国内の出来事を傍観していると、ふとそんなことを思い至ったのが、奇しくも2021年も終わりを迎えるタイミングであった。
まぁそんなタイミングまで思い至らなかった自らに反吐が出るほどなのだが。
思い立ったが吉日、文字通り積読になっていた書籍を枕元に積み上げ(結局のところ、インプットは書籍に頼る)、己の体に鞭打ち、2022年元旦とともに筋トレ、ランニング、暇があれば読書、健康的に自炊を心がけ、飲酒も控えめに...と自分なりに頑張った1週間ではあったが、そこは所詮生き物、急激な環境の変化に精神が若干足並みを揃えられず、この成人式の3連休は少し振り出しに戻っている。筋トレとランニングにだけ活力が湧きあがってこないが故に、「少し」と形容したことをここで注釈しておきたい。
ここまで怒涛の勢いで書き殴ってきたが、そう、ニンゲンは急には変われないのだ。
自身の場合は精神的に打撃を受けるのだが、その「もやもや」の正体こそが、変われない自分に対して抱く嫌悪感から派生する陰な気分であり、それに囚われ続けることで精神的に異常をきたし始める。いつものことではないか、なんら変わりない、いつもと同じループ。
ここ2,3日ほど心にあった蟠りだが、こんなふうに客観的に吐き出してみることでその実体を少しでも見出すことができた。なんだ、2022年は幸先良いのではないか。
とまぁ、表題とは殆ど関係のない、第三者にとって何の足しにもならない内容に終始してしまったわけだが、読者にとって何か少しでもヒントになる事柄・キーワードが、このような拙筆の中に埋もれていれば幸いに思う。
お付き合いのほど、よろしくお願いしたい。
またの週末に、お目にかかりましょう。
Loserな日常
前回の投稿から4ヶ月。色々あって暫くお休み頂いておりました。体調はすこぶる元気。単にインプットが少なすぎて一旦小休止した次第。
だからといって何かネタを仕込んでいたわけではなく、ただただ漫然ともどかしい日々をす期していただけなんですが。
緊急事態宣言も延長の延長、解除されても蔓延防止重点措置、若しくは各都道府県の独自措置と、結局は新型コロナと
1年半も戦っているわけで、某政府の人間の「1年で収束させる」とか「五輪は勝利の証」とか、ひとつも達成されていない日常で、
テレワークにならない自身の職場に毎日通い詰め、飲み屋では騒げず(そもそも開いてない)で、何をどうしたら「有意義な」生活を
送れるのかと。まぁ不平不満ばかり綴っても意味ないんですけどね。
Loser(負け犬)と簡単に自身を呼称できる自分だが、大学を卒業するタイミングから何かにつけて口にしたり、SNSのアカウントに
付与したりするようになった。産んでくれた親にしたらキレるだろうけど、自身の記憶がある限りで思い返すとこの単語ほど
己を形容するものはない。
長い物には巻かれろな中学時代。一匹狼みたいに周りと距離を置くよう努めた高校時代。受験失敗を引きずって孤軍奮闘した大学時代。
内定がひとつも出ず、藁にも縋る思いで入社したブラック企業時代ー。
他者との比較ほど無意味なものもないが、所謂「小説や映画、街中に溢れる」サクセスストーリーとはかけ離れた自らの環境を恨むと
同時に、「それを変えられるのは自分自身」という当たり前なことに向き合えず、日々を過ごした時期。少女漫画でいうところの
「悲劇のヒロイン」な感傷に浸っていたことを、今になって振り返れば痛感する。
そんな自身も、転職を機に少しは感覚も変わってくる。この4年は特にそれを体感している。
ブラック企業時代はなかったほどに前向きになったし、自らをひけらかして他者に何でも話せるようになった。
「環境が変われば人は変わる」と誰もが言いそうなフレーズだが、まぁその通りなんだろうな。
ただ、単に環境を変えるだけであれば金銭的な問題さえ解決すれば誰でも達成できる。学校でのいじめ問題も、
じゃあ加害者或いは被害者が転校すれば解決かと言われると、残念ながらそうではないだろう。
特に被害者側からしたら酷な言い方に聞こえるだろうが、最終的には「自分次第」なのだ。
「過去に向き合った上で、自らはどう生きたいのか」
ヒトは朝起きたら別人になっていることはない。昨日までの意識や意図、思考の上に「私」が確立されている。
だとすると、「昨日までと別人になる」には、長い年月をかけて細胞レベルで自らを変える必要がある。
自身が変わったように感じる(或いは錯覚している)のにも、4年かかっているわけだから、生半可な決意では達成できないのであろう。
「だから諦めろ」とか「頑張れ」というつもりは毛頭ない。かけるべき声はひとつしかないのだから。
「正解はひとつもない。信じた道を裏切らずに突き進め。」
自身が今あるのは、自らのLoserな過去があるからこそ。
だからこそ、自らをLoserと呼称することになんの嫌悪感も、なんの自己意識もない。
自分自身がLoserなんだから。